小野小町の本名と名前の由来は?100歳まで生きた生涯と最期・死因についても
世界三大美女の一人と言われている小野小町。
すごい美人だと言われ続けて今に至っていますね。
でも小野小町は本当は謎に包まれた女性なんですよ。
今回はそんな謎に包まれた小野小町を追っていきたいと思います。
目次
小野小町の本名
小野 小町は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人で六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人なんですよ。
今の時代で言えば、無茶苦茶売れているシンガーソングライターみたいな感じかもしれませんね。
でもその無茶苦茶売れているシンガーソングライターの小野小町は本名ではなかったんです。
子供の頃に覚えたくもない百人一首で小野小町はいましたよね(笑)
絶対に本名やと思っていた方も多いと思います。私も思っていました。
でも違うんです、ビックリでしょう。
小野小町の名前の由来
小野小町の「小町」というのは天皇の妻のうち更衣に与えられた名であったと考えられているんですよね。
だから小野小町という名前の由来は、当時の有力貴族小野氏出身の更衣だったことを示しているんです。
しかも平安時代の女性は、自分の名前を明らかにしないのが普通なんです。
実際には、9世紀中頃に小野氏から宮仕えして活躍していた「小野吉子」が小町小町の本名かなぁと推測されているんですよ。
小野小町から小野吉子っていきなり周りに居そうな名前になりましたね。
1000年以上前でも吉子さんって居たんだと思うと小野小町が身近に感じますよね。
小野篁の孫
小野小町の父親については、従三位の高位に上った小野篁の息子の小野良真(よしま)の娘と言われています。
でも小野良真は「尊卑分脈」という書物にしか登場しない人で、実在が怪しいんですよね。
小町の生没年を考えると、小野篁の娘ではないか?というような説があるんですよ。どっちやねん!と思うでしょう。
それくらい小野小町が謎に包まれた人物なんですよね。
小野篁と井戸繋がりも
小野篁と小野小町の小野家は二人とも百人一首に歌が選ばれているのと、もう一つ繋がりがあるんです。
それは、井戸なんです(笑)
小野篁は六道珍皇寺の井戸から冥界に行き閻魔大王と一緒に仕事をしていた話は有名ですよね。
以前私のブログでもそのエピソードを書いています。
小野篁と言ったら井戸なんですよね。
そして小野小町も井戸のエピソードがあります。
その井戸のある場所は京都市山科区小野にあるんです。
地名にも小野が付いていますよね。
京都市山科区小野は、平安時代に小野一族が栄えた場所と言われています。
この山科区小野にある真言宗善通寺派の大本山「随心院」と言う寺があるんです。
その随心院の薬医門の西側に、小野小町が宮廷を辞した後に、晩年を過ごしたといわれる屋敷があったそうなんです。
その屋敷にあった井戸が、小野小町が朝と夕に顔を洗って化粧をした「化粧の井戸(けわいのいど)」と言われています。
小野小町の井戸は冥界に繋がってはいませんが絶世の美女の化粧の井戸ですからロマンチックですよね。
100歳まで生きたかもしれない謎の生涯
実は小野小町は誕生日も亡くなった日も曖昧で不詳なんです。
有力貴族小野氏出身で祖父か父のどちらかが小野篁。
また百人一首の歌にもはいっているし、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人なのに謎に包まれた女性なんです。
まあ1000年以上も前のことだから仕方ないですね。
平安時代の小野小町がどんな人物だったのか解る史料は、あんまり無いんですね。
だから彼女が作ったであろうと思われている歌から、小野小町を推測しているんですよ。
色々なひとが推測して「小野小町はこうだった、そうだった」など伝えられて伝説となって行ったんだと私は思います。
生誕地は全国にあるのですが、よく言われているのは現在の秋田県湯沢市小野ですね。
晩年も同地で過ごしたと言い伝えが残っていますが確証は無いんですよ。
小野小町は謎に包まれているぶん、全国に多くの伝説あるのでしょうね。
私は京都に住んでいるので京都説の伝説をおしますよ(笑)
深草少将の百夜通い
有名なエピソードで小野小町と深草少将との「百夜通い」のエピソードがあります。
どんな内容かというと、小野小町を恋焦がれる深草少将に小野小町は「百夜訪ねて来てくれたなら、お心に従いましょう」と言うんですね。
そして深草少将が毎日小野小町を尋ねて行きます。
可哀想ですが百夜目に大雪に見舞われて、寒さと疲労で力突きて深草少将は凍死しちゃうんです。
このエピソードは美人を鼻にかけた性悪の小野小町が悪者で深草少将が一途というの構図が一般的ですよね。
でもこれは私は違うと思いますよ。
小野小町は京都人らしく100日と言ってやんわりと断っているんだと思いますね。
それなのに深草少将が気が付かないで、ストーカーみたい毎晩通ってくるんです。
しかも後で深草少将は、怨霊になるんですよ。
美人に振られて怨霊になる人なんて最初から脈無しでしょう!
「えー、深草少将さん気いついてよ。ほんま迷惑やし!」って小野小町は思っていたと私は推測しますね(笑)
100歳まで生きた伝説
小野小町は全国に伝説と墓があります。
でもどれが本物かどうかは分からないんです。
平安時代の京都では、亡くなった方のご遺体は貴族も野ざらしの風葬が一般的なので、小野小町の墓自体がない可能性も考えられますからね。
でも自分の住んでいる所にあったら、うちのが本物やで!と言いたくなりますし、小野小町がいた伝説が嬉しいですよね。
ちなみに滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像があります。
また観阿弥(かんあみ)作の謡曲『卒都婆小町(そとばこまち)』では、小野小町は100歳まで生きていますよ。
小野小町の最後・死因の伝説
100歳まで生きた伝説があるように小野小町の最後や死因の伝説があります。
先程に書いたように小野小町は誕生日も亡くなった日も曖昧で不詳なんですね。
だから小野小町の最後や死因の伝説も全国各地にあるんですよ。
でも伝説のどれもこれも私には、もてない男と美人をうらやむ女の怨念みたいに感じますよね。
例えば頼る人もなく美貌も日々に衰えて、家は破れ庭も荒れ落魄れて、はては野山をさまよったとか。
また小野小町の骸骨の目からススキ生えていて痛がっているとかあるんですよ。
多くの伝説は、全く小野小町とは違う「小町」の話が小野小町の話として伝えられてると思います。
私が住んでる京都には幸せな小野小町の最後の伝説がありますよ(笑)
「冷泉家記」によれば小野小町は京都府井手町にあった井提寺別当の妻となって幸せな晩年を過ごし69歳で没したと記されているんです!
やはりこの方が良いですよね。
歌が上手く、しかも絶世の美女が幸せな晩年を過ごした。
この伝説が一番しっくりと来ますね、しかも京都の伝説やし(笑)
美人の代名詞の小野小町は、絶世の美女がゆえに年老いても伝説が生まれるんでしょうね。
小野小町の歌の意味
小野小町の百人一首の歌は超有名ですね。
「花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせし間に」
この歌の意味は、桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった。春の長雨が降っている間に。
ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。
と世間ではそう訳されていますよね。
美人の小野小町も歳とともにその美貌の衰えて、老いた自分を嘆いている歌の様に訳されています。
色々と小野小町を調べていると、はたして本当にそうなのかなと思います。
私が思う小野小町像
絶世の美女でその美貌で周りの男性達を虜にしてきた小野小町。
つつましく艶やかで恋多き女性の様に多く伝説があります。
伝説の章で書きましたが、その中には小野小町の美貌に嫉み悪意に満ちた伝説が多くあるのも事実なんですよね。
小野小町の美貌が衰えおちぶれ行くような伝説がそうです。
百人一首の歌も歳とともにその美貌の衰えて老いた自分を嘆いている歌の様な解釈もそうですよね。
でも「う~ん、本当にそうなのかなぁ」と私は思うんですよ。
なぜそう思うかというと小野小町の祖父または父が小野篁なんですよ。
小野小町はこの方の血筋なんです。
小野篁の性格は情熱的で反骨精神の持ち主です。
当時は朝廷に逆らうなんて有り得ないことなんですが、小野篁は逆らって流罪になるような反骨精神の持ち主です!
そんな小野篁に育てられた小野小町が、自分の美貌が衰えて老いた自分を嘆いている歌を詠わないと思いうんですよね。
先程、月心寺に小野小町百歳像があると書きましたが、この小野小町百歳像は老いてはいますが凛とした姿で毅然としています。
また謡曲の「鸚鵡小町(おうむこまち)」でも小野小町は老いてはいますが帝に対しても媚びずに毅然とした態度で接します。
ですから小野小町は絶世の美女ですが中身は小野篁ゆずりの反骨精神の持ち主だと私は推測します。
このことを考えると世間一般に解釈されている「花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせし間に」の小野小町の歌は少し意味が変わりますよね。
花の色はの意味は、自分の美貌の事ではなく自分を取り巻く人や社会の事を言っているのでしょう。
私の解釈は、「私は毅然としていても、あっという間に人の気持ちや社会は変わってしまう薄情なものですね」と平安時代の女性には珍しい反骨精神を表現した歌に感じます。
まとめ
9世紀中頃に小野氏から宮仕えして活躍していた「小野吉子」が小町小町の本名と推測されている
小野小町は小野篁の孫とも言われています。
小野小町は誕生日も亡くなった日も曖昧で不詳で謎に包まれた生涯です。
深草少将の百夜通いや100歳まで生きた伝説など多くの伝説があります。
小野小町の百人一首の歌「花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせし間に」は祖父の小野篁を考慮すると受け取り方が変わると思います。
絶世の美女として今も語り継がれている小野小町は、美しいだけでなく凛として毅然とした態度で生涯を送ったと私は思います。
少し角度を変えて歴史を見ると新しい発見があるので面白いですね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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